「マスコミは同じ間違いを繰り返すのか?」 バックナンバー
*< >はダイアモンド・オンラインの引用
「ダイアモンド・オンライン」で2024年に公開した、日本文化研究家のパオロ・マッツァリーノ氏の「松本人志さんの罪についての考察と提案」と題した論考が「ぐうの音もでない」「完璧すぎる論破」といった反響が広がっているらしい。私はネットで偶然その記事に触れ、問題の切り口に感心してしまった。
ジャニー喜多川氏による性犯罪について、私は2度ばかりこのコラムで取り上げたように、マスコミは彼の犯罪の報道をしなかった。イギリスの報道をきっかけにやっと重い腰を上げたのだ。
パオロ・マッツァリーノ氏によれば「良い人が犯罪を犯すことはない」という予断がそうさせたという見方をしていて、今回の「松本人志氏の問題」についても、根拠のない予断がマスコミが断罪しないという同類の報道の仕方だと論じている。
余談だが、私はジャーニー氏の問題については、何年も前に裁判で決着のついていた事件なので、マスコミは意図的に知らない素振りをしていたと思ってはいるが…。
パオロ・マッツァリーノ氏は言う。<犯罪の告発は、明らかな虚偽が認められないかぎりはいったん信用して受理しなければなりません。そのうえで、双方の主張内容を比較検討し、どちらが正しいのか考える。これが法治国家における正しい手順です。>と。
マスコミの今回の松本人志さんの性加害疑惑の報道はテレビがまた同じ間違いを繰り返そうとしているように見えると彼は言う。事件の内容で発言することなく、人情論だけで松本人志さんを擁護する芸人、タレントが目立つとも。
例えば<立川志らくさんは、人情を大事にするから世話になった松本さんを支持するといっていますが、もし被害者が自分の娘だったとしても同じことを言うのでしょうか>まさに一刀両断である。
<番組制作者が意図的に出演者を選んだり、番組を構成しているのではないかすら疑ってしまう>とも…。その根拠としてコロナ禍の時期には朝から晩まで感染症の専門家がテレビに呼ばれて解説していたし、地震の後には地震学者が出演して解説している。これが基礎知識がない問題を取り上げるときの一般的手法である。
<日本の性犯罪認知件数が欧米に比べて少ないのは、犯罪が起きてないからではなく、そもそも警察が性犯罪被害の訴えを門前払いしてしますからで、裁判までにこぎつけるのは被害全体の2%くらいしかないなどといった、法治国家とは思えない実態があります。> 私はそういった現実を全く知らなかった。これで被害届をすぐに出さなかった理由がわかった。
私がいつも言うように、微に入り細部に入れば物事の本質は見えなくなる。松本人志氏の問題では重要なポイントは一つだけである。ホテルの部屋に入るなり、女性たちが携帯(スマホ)を没収されたという証言である。
芸能人であれ、一般人であれ飲み会でそうことをするだろうか。それを取り上げるのは、写真に撮られたり、音声を録画されては困る状況があるからだろう。つまり、松本人志氏の取り巻きはそれが分かっていたということだ。
それらをネットに上げられたり、警察に証拠として提出されることを恐れていたというのは誰が考えても分かる。楽しく飲んでいる画像、音声をネットに上げられても、警察に出されても何の問題もない。犯罪の自覚さえあったのではないかとパオロ・マッツァリーノ氏は説く。
昭和の時代には許されていた理由もパオロ・マッツァリーノ氏は見事に解説する。芸人を大目に見る感覚は、江戸時代に芸人が「河原乞食」と呼ばれた時代の名残であり、芸人にやさしかったからではなく差別だったと。
その例として、ビートたけし氏が1970年代前半ころ、家族には反対され、家に帰ってくるときは近所のひとに見られるなとお母さんに言われたエピソードを書いている。また、歌舞伎役者の八代目・坂東三津五郎はこどもの頃から大金持ちで家ではお坊ちゃんと呼ばれていたのに、大正二年に小学校に入学したら河原乞食と呼ばれたとエッセイに書いているとも。
パオロ・マッツァリーノ氏の松本人志氏に関する文春報道、テレビ報道に関する解説は目からうろこであった。
2024年04月