塾選びの基準は「期待通りかどうか」? バックナンバー
塾選びの基準は何か?これは古くて新しい問題である。保護者、生徒にとって永遠のテーマと言えるだろう。
「そんなことはない。答えは単純だ。成績が上がるかどうかが唯一絶対の基準だ」という人もいるだろう。しかし、それは単なる頭の上での思い込みに過ぎない。実際にはスポンサー(保護者)の塾への期待はそれほど単純ではない。
どういうことか。当然のことだが、保護者は子供に大いなる期待を抱いている。成績が上がる上がらないの基準は、実際の得点のアップダウンではない。保護者の期待通りに上がったかどうかが、最も重要な基準である。
その期待の基準は2つ。その1つは常に上がり続けるかどうかである。例えば、学校の定期テストで5科目合計点300点の生徒が370点に激しく上がっても、そのときだけは上がったと感じるが、次のテストで370点だと「上がらない」と感じるのである。
極論すれば、今まで300点しか取れなかった生徒が370点に70点上がっても、その時だけは上がったと喜ぶが、今度はそこから上がるかどうかが基準となる。しかも、テストの問題レベルが高ければ当然得点は下がる。平均点対比を考えれば、実質的に上がっていても下がったと感じる保護者もいる。失礼を承知で言えば、計数的にとらえることが苦手な生徒、保護者に良くあるパターンである。
上記の例は極端のように感じるかもしれないが、保護者のゴールがどんどん上がっていくパターンは想像以上に多い。得点など無限に上がり続けるものではない。万一それが可能なら、すべての人が東大に合格することになる。
勉強もスポーツも同じで、勉強に適正があるかどうかによる部分も欠かせない条件である。仕事で例えるなら、新しい社員が入社したとき、すぐに仕事を覚える人、なかなか覚えられない人がいるように、勉強もまったく同じである。
かなり上がってその得点をとり続けても、「上がらない塾だ」と思い込む保護者がいるのはそういう理由による。その得点を取り続けるために、どれだけ支えていてもそれが見えないのである。
最悪の場合は、「上がらない塾」と判断し、子供を退塾せせる場合もある。させるという表現を使ったのは、子供は塾に支えられているのを身体で分かっているが、期待の得点でしか見えない保護者が子供を無理やり退塾させるのである。そのため泣きながら淳風塾を辞めた生徒の姿が強く印象に残っている。退塾したあと大きく点が下がってから、初めて上がっていたことを認識して後悔する人も…。
もう一つの保護者の基準がある。それは広島市内の場合で言えば、多くの保護者、生徒はいわゆる「六校」を希望していて、それに届くかどうかが上がったかどうかの基準である。
前述のように、勉強への子供の適正、現状の基礎的な学力、頑張れる性格かどうかなど、学力を形成する条件がある。それらの条件を捨象して、「とにかく六校」に合格し得るかどうかを、最も重要な基準にするのである。
現生徒の保護者の時代には、六校は総合選抜の時代で(単独高校の入試選抜でなく、六校のどの高校に振り分けられるかわからない)、今と比べるとはるかに入りやすい高校であった。大まかに言えば、上位35%が合格可能な高校であった。
例外的に今年は観音高校が、例年と比べて入りやすかったようだ。また、数年前には舟入高校が入りやすかった時もある。しかし、それはあくまでも例外であり、一般的に言えば、現在では上位約25%の生徒が通う高校となっている。基町高校に至っては上位約3%が目安で、舟入、国泰寺では約10%となっている。
その六校に入れるレベルにいるかどうかが、保護者、生徒の基準である。簡単な論理で言えば、上位25%のレベルにいなければ納得できないのである。そのレベルに達していないと生徒を「怒る」保護者もいる。怒っても何の効果もない。単に自分の期待通りにいかない怒りをぶつけているだけである。
保護者の世代を指導した経験があるが、彼らも同じように怒られていた。歴史は繰り返すというが、まさにこのことを言うのであろうか?子供に期待するのは親として当然である。しかし、過剰な期待は親子関係を“いびつ”にする。それは子供たちが大人になっても、彼らの心の中に淀んでいる。何度も何度も私がこのコラムで主張してきたことだが、子供の成長を温かい目で見守るのが保護者の役割だと改めて思う昨今である。子供を怒っているあなたも決して親の期待通りではなかったと思われるが、それは言い過ぎであろうか?
2020年10月