「良い出会いが人生を変える!」 バックナンバー
私たちは日々人と出会い、また別れがある。毎日の生活はその繰り返しである。振り返ると塾という職業は新たな人と出会う機会が多い職業である。それもかなり近しい関係になる出会いである。
そのため、その人に影響を与えたり、その人から影響を受けることも必然的に多くなる。つまり相互に強く影響し合う関係が生まれる。特に子どもたちが相手の仕事ゆえ、その子の将来に大きな影響を及ぼすので、「これでいいのだろうか?」と不安に陥ることもある。
自分自身を振り返ると、現在の自分が大きな影響を受けた人がいる。中学校時代など、数学については得意教科であり、数学で困ることはなかった。ところが、高校に入ってから、得意であるはずの数学でつまずいたのである。
自分自身にとっても想像外の出来事だった。現役での大学入試は失敗し、浪人を余儀なくされた。いま政治的話題の、あの「岡山理科大」の哲学の先生が、私の通う予備校にアルバイトできていた。その教師の言葉が今でも鮮明に残っている。
「1+1=2が数学ではない」。続けて、「2+2=5という仮定から 雪は白いという結論を得た、この論理は正しいかどうか?」今まで考えてもいなかった発想である。彼によれば、アメリカの学者とロシアの学者の見解が違うという。
どういうことか。仮定が間違っていれば結論が間違うのは当然である。だから、このロジックは正しいとする説。それに反して何をバカな論理の展開なのかとする説。どちらがどの説を取っていたのかなど、細かなことは記憶にない。
ここで私が衝撃を受けたのは「1+1=2が数学ではない」である。つまり、数学の本質とは、単なる計算とかその延長線上ではないということだ。数学とは論理の展開を学ぶ教科であると知ったことだ。
もともと大学では「哲学」を学びたいと希望していたのだが、彼によってその意を強くした。大学で学んだことは「哲学はすべての学問の出発点である」ことだった。
例えば、天文を中心の研究は哲学から独立して天文学、身体のことを中心の研究は医学、政治中心の研究は政治学として独立した。数学はもともとそれらの論理を組み立てるための手段として存在したのだ。
しかし、今では数学も独立した学問の分野になっている。つまり、哲学から一つずつ抜けて独立した学問になる。これが進めば最終的に哲学独自のジャンルははなくなることになり、「哲学とは何ぞや?」との問いに行きつく。
ただ、最終的には「考えること」だけは残る。換言すれば、「哲学とは思惟すること」になる。一般には馴染まない、こういう屁理屈に近い理屈は、塾と直接的な影響は皆無に思われるかもしれない。
しかし、私の現在の在り方、淳風塾のシステムに大きな影響を与えている。特に高校数学は、大学でかじった哲学がその基礎となっている。
数学の得意な人たちは公式を駆使して「華麗な解答」を書く。しかし、数学の得意でない生徒にとっては、公式を覚えるのが大変である。覚えたとしても、符号がプラスだったかマイナスだったかさえ曖昧になったり、どの公式を使うのかも分からない。これが多くの高校生たちの現状である。
公式を極限に減らして、論理の展開で高校数学は解ける。理系の生徒と比べると1,2行多く書かなければならないが、高校数学が「手が出ない」ほど難しくはないと思えるようになる。これが「文系にも分かる数学」である。卒業生の多くが「数学は楽だった」と口を揃える。
この手法は、大学入試だけでなく、企業に入っても力を発揮できるだろう。企業では一般的な経営理論はあるが、具体的にどうすべきかの理論はない。企業における現状を分析し、論理展開によって結論が導かれる。
単に数学に留まらず、「文系にも分かる数学」が、企業で使える「数学」であって欲しいと願っている。そして、今年もまた、新たな出会いがあることを願っている。
2019年01月