「教師の奇妙な採点基準」 バックナンバー
学校の教師によってはトンデモナイ採点基準を持っている人がいる。その基準を知ると、その教師はどういう生徒を育てたいのか?と思ってしまう。30年を越える経験で知った、その一部を紹介する。
例1 次の①~④の中から正しいものを選びなさい。これに対してある生徒は2と答えた。それが×になった。なぜなら②でなかったから。つまり、2に○をつけてなかったために×になったという。
例2 英語のアルファベットでJが×になった。なぜならその当時の彼の習っている教科書にはJの上の横の線が入ってなかったので、横線を入れたために×だったらしい。そのとき「誰に習ったか知りませんけどね!」と、さも気にくわない口調で生徒に言ったという。
例3 三角形の合同条件は教科書によって表現の違いがある。「二組の辺の長さとその“挟む角”がそれぞれ等しい」では×にする教師がいる。“挟む角”が“間の角”でないからだ。啓林館と学校図書の出版社によって表現は異なる。しかし、使っている教科書とは違うから間違いだそうだ。
使っている教科書がすべてで、それ以外は間違いだとする基準が彼らにはあるのだろう。ご存知のように、日本の教科書はすべて文部科学省の認定を受けている。その地域で採用されている教科書と、他の地域で採用されている教科書では多少の表現の違いはある。しかし、使っている教科書がすべてで、それ以外の表現はすべて間違いだとする基準が彼らにはあるのだろう。
また、教科書には絶対に間違いがないとの信念もあるのかも知れない。数年前のことだが、ある大手の教科書出版会社の地理の教科書が30箇所以上の間違いがあったのを、彼らは知らないのだろうか?それとも忘れてしまったのだろうか?間違っていた教科書の一字一句を正しいとした解答を正解としていたら、当時指導を受けていた生徒は間違いを覚えていたことになる。
万一、その採点基準とするなら、最初から生徒にそれを伝えておかなければならないだろう。教科書以外の表現は×にすると…。これでは後出しジャンケンではないか!
以上はある面では技術的なことであるが、彼らの考え方にはより大きな問題が横たわっている。つまり、子どもたちを育てること、子どもたちが学ぶことについて、根本的に考え方の間違いがある。
どういうことか。子どもたちは周りの多くの人から学ぶことによって、幅広い知識とか生き様を学ぶのだ。自分以外の人が教えること、自分以外の人から学ぶことを認めないのは問題だろう。最近では多くの生徒が塾とか家庭教師に学んでいる。実際文部科学省の役人さえも今やその子息は塾に通っている時代である。それに両親に学んだり、兄弟に学ぶこともある。
彼らのやっていることは、相手が子どもだから可能なのである。万一、大人相手に同じようなことを行うと厳しい批判が巻き起こるだろう。さらに、彼らは相手が子どもというだけでなく、内申点という切り札を持っている。子どもたちも保護者もそれが恐くて批判できないのだ。彼らの権力のよりどころは「内申点=成績表」なのだ。
ときどき高校生にこういう類の話をすると、「そんな先生はいないだろう」という。多くの先生は信頼されている。しかし、30年を越える指導の中で知ったことは、考えられない教師が一部居るのも事実であるということである。こういうことで、匿名で教育委員会に告げる人が現れるのかもしれない。
まだまだこれ以外にもいろいろある。恐るべき石頭で、そういう教師は生徒が指摘しても絶対に間違いを認めない。彼らは生徒たちの目、同僚の教師の目にどう映っているのか、それが分からないのだろう。
「指導している子どもたちは自分より立派な人間になる」という視点が、教師に求められる最も重要な視点だと思うのだが、どうであろうか?
2016年5月