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なぜ勉強するの?

「こんな勉強は何も役に立たないのに、なぜ勉強するの?」

 生徒から良く指摘される疑問である。あなたはこの疑問にどう答えますか?もちろん、その正解は一つではない。十人いれば十の、百人いれば百の答えがある。

 ある人は説明するだろう。いわく、「高校、大学に入れない」「数学ができないと買い物ができない」しかし、一体どれだけ生徒に説得力を持つのだろうか?

 私は逆に生徒に質問することにしている。「君はなぜ勉強するのか?」と…。

 生徒の答えも大人と同じような答えが返ってくる。その時私はさらに質問を続ける。「高校、大学に入れなくても生きていけるし、実際そういう人も多い」 生徒は答えに窮する

 「買い物をするために計算は必要でない。いまどきお客さんにおつりを騙す店はない。まして、関数など買い物にはまったく必要ない」−生徒は窮する…。

 この根源的な問いかけ(疑問)にどう答えたらいいのであろうか?

 明治維新間もない時期に、子どもたちからこういう疑問が提起されたであろうか?また、発展途上国の子どもたちは、こういう疑問を持つであろうか?テレビなどで見かける発展途上国の子どもたちは、鉛筆、紙も十分買えない状況の中で必死に学んでいる。

 実際、日本も戦前においては「女工哀史」にもあるように、年端もいかない12,3歳の子どもたちが、12時間労働という過酷な生活を強いられていたのである。

 生きていくために、彼らも労働力とされている社会では、「勉強できること」は幸せなことである。また、子どもたちの権利でもある。そして、より豊かな安定した生活のためには「勉強する」以外にはないことを、彼らは肌で知っていたのである。

 国そのものが豊かな現在の日本は、必死に勉強しなくても生きていける状況がある。さらに子どもたちはこの状況がずっと続くものと思っている。こういう一見豊かな社会では、勉強の必要性を彼らにどう伝えればいいのであろうか?

 資源が十分にない国は、長期的に捉えれば、農産物の生産・加工貿易・高度な情報産業・観光などに活路を求めるしかない。そのどれをとっても「頭を使う」必要があるのである。

 農業について言えば、狭い平地で生き残るには、高付加価値な作物の生産、加工貿易も高度な加工をしなければ、安い人件費の国には勝てない。情報産業しかり。観光においても世界にどのようにアピールするかの戦略が必要である。

 世界において、日本が現状の地位を確保するためには、そのどれをとっても人的な資源、つまり、一定の知識労働力が必要不可欠である。

 ところで、多くの知識人が指摘するように「格差社会」が広がっている。六本木ヒルズの象徴される超富裕層とワーキングプアと言われる人々との格差には、かつての日本が経験したことのない「競争社会」という現実が顕著に現れている。

 もちろん、これは富の再分配システムの欠陥という側面もある。しかし、社会全体が豊かでなければ再分配をどんなにうまくやっても、社会全体が貧困になるだけに過ぎない。

 豊かな日本がこのまま続くとは、私には到底思われない。勉強することに疑問を呈している次代を背負う子どもたちに、われわれ大人たちは「勉強の社会的な意味」を言い続ける必要があるのではないであろうか?

 それも単に「自分のためだけ」という自己中心的な理由だけでは、豊かな生活になろうとも、「格差社会の拡大再生産」に棹差すだけである。

 「人の生きざまー心の問題」「豊かな社会の創出−財の問題」は同時平行的でなければならないのではないか?極言すれば、「自分さえ良ければいい」という考え方からは、「他人はもちろん、周りの人、親友、親とか子さえどうでもいい」ということになる。

 「勉強しなさい!」の一点張りでは子どもたちは、勉強するのがますます嫌になる。あなたは子どもたちにどのように答えているのであろうか?

2007年09月


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