心豊かな日本の行方は? バックナンバー
あるテレビ番組を偶然見ていて、レポーターの言葉に「う~ん」と、考え込まされた。 シンガポールだったかマレーシアのレポートで、その国では、「人が生きることは周りに迷惑をかけている」という考え方である。人が生きることの本質を、何とシンプルで、しかも的確に表しているのであろうか?
その国ではそれが常識になっているだけでなく、彼らの生活の中に強く根付いている。そのため他人に対してとても寛容であるらしい。多様な文化を認め、それを自然に受け入れる人々の生活がある。
我々日本人も「人に迷惑をかけるな!」と耳にタコができるほど聞かされて育った世代もすでに中年以上。私自身も云われて育った世代にも関わらず、我が子にどれだけそれを教えたか、反省せざるを得ない。
自己中という言葉が流行った時期がある。今やそれは、さも当然であるような錯覚さえする。自分の権利を声高々に主張することが、まるで当然であるかのような社会になっている。
「お客様は神様です」-この言葉を逆手にとり、飲食店などで傍若無人に振舞う人もいる。自分が逆の立場で考えることが希薄になりつつある。
「人はいずこに赴くことができる。だが、いずこに赴こうとも己よりかわいき者はなし」という先人の言葉がある。確かに生存している以上、すべて己を捨てることは不可能である。それは「生きとし生けるもの」に本質的に存在するのであろうから。
自己犠牲を強いられた戦前、戦中においてさえ、建前はともかく、ごく一部の人を除けば、あり得なかったのではないであろうか? 多くの尊い犠牲を払った太平洋戦争。その後の民主主義の教育は、われわれの生活を自由にさせ、基本的人権の行使を飛躍的に向上させた。そのことは基本的人権を踏みにじられ続けられた人々、換言すれば多くの国民にとって、例えようもないほどの幸せだったろう。
一方では、過剰な権利の主張も生まれている。モンスターペアレントとかクレーマーと呼ばれる人たちである。何かにつけてクレームをつける。本人たちにとっては、それは正義だと思っているだろう。もちろん、物事の見方は多様であり、それが必ずしも間違いとは断定できないのも事実である。
その行きつくところは訴訟である。いずれ日本は訴訟が日常的になるのではないだろうか?実際その兆候は表れている。
明治維新から日本は西洋に追いつけ追い越せを目標にしてきた。そして、実に短期間にそれを実現した。それと同時に西洋的な「自己」をも受け入れた。それらは決して悪いことではない。
しかし、どこかに「人に迷惑をかけない」という日本的な歯止めがなければ、ますます自分で自分の首を絞めることになるのではないか?
ペリーが日本に来たとき、「貧しいが心豊かな国」と感じた日本。「この国が開国することが本当に幸せなのだろうか?」と躊躇さえしたと聞いている。その「心豊かな日本」は一体どこに行くのだろう。
2013年03月