「時代と共に言葉は変わる」
平安時代にタイムスリップして、日本を代表する言語学者が正しい日本語を使い、当時の人たちに話しかけるとき、当時の人びとがどういう反応を示すか想像すると実に興味深い。おそらく、「変な言葉を使う人たちだ!」と感じるだろう。さらに、言葉の正しい使い方を知らない奴だ!とも…。
例えば、「あわれ=あはれ」 言語学者はこれをどういう意味に使うのであろうか?「深い趣がある」という意味で使うであろうか?それとも、「深い趣がある」であろうか?ご存知のように、当時は「深い趣がある」という意味であった。しかし、現代では当時とまったく逆の意味になって、肯定的な意味から否定的な使い方に転じたのである。
ところで、毎年、ある時期になると定例行事のように、「言葉の使い方」がマスコミをにぎわせる。それは敬語であったり、慣用語であったりする。
「犬も歩けば棒に当たる」元来、ウロチョロするな!という意味であったが、現在では「良い事がある」という意味にも使われている。「流れに棹差す」はどうであろうか?「流れに任せる」が本来の意味。しかし、これを反対の意味に取る人も多い。では「気の置けない」はどうであろうか?本来気を使わなくても良いであるが、これも逆の意味に取る人も多い。
「ご苦労さまです」も語源から言えば目上の人が目下の人に使う言葉である。そういう類の言葉遣いを「最近の若者は言葉使いがおかしい」と中年のサラリーマンらしき人のインタビューも面白い。何と彼らも言葉の使い方が違っていることが多い。
正しい言葉の使い方とは一体どういう使い方を言うのであろうか?言語学者がここぞとばかりしたり顔で(失礼!)コメントしている画像に出くわすたびに思う。良く間違うという言葉の中には、何十年生きている私でも聞いたこともない(だろう)言葉がある。
何十年生きていて聞いた事もない言葉を知っていて意味があるであろうか?元来、言葉とはコミュニケーションの手段、つまり自分と相手の意思疎通の手段に過ぎない。自分も相手も知らない言葉(多数の人が知らない言葉)の使い方を論じても、まったく意味がない。その上、言語は時代とともに変化する。
使っている物がなくなればその言葉はいずれ消滅する。例えば、「とうみ」など、どれだけの人が知っているであろうか?また、言葉は逆に使うことも多い。前述の「あわれ」が肯定から否定の意味に転じているのはその代表的な言葉であろう。
つまり言語とは時代とともに変わるのである。では、言語学者の言う正しい言葉の使い方とは、どの時代の言葉を正しいと言っているのであろうか?私の想像では、彼らの育った、換言すれば彼らの学んだ言葉を正しいと称しているのではないか?逆説的に言えば、時代の変化にうとい彼らこそ、正しい言葉を使ってない場合もあると言えないであろうか?
最近大きく変化している言葉に、「全然」の使い方がある。呼応の副詞と感じる人は、かなり年齢の上の人である。最近の若者は「とても」という意味に使うことが多い。呼応の副詞としての使い方は書き言葉にのみ残っている?
また、若者が好んで使う言葉?に「ヤバイ!」がある。特に凄いとき?に彼らは良く使う。美味しいものを食べたときなど「これはヤバイっすよ!」20代の後半以下の人たちの使い方のようだ。彼氏のアクセントでも年齢(世代)はすぐに分かる。彼を強く読めば40代以上、氏を強く読めばそれ以下のようだ。
これは余談だが、若作りにしていても、その使う言葉で年齢が分かる。1つや2つ新しい使い方をしても、すぐにその年齢はばれる?
言葉は変わる。それは至極当然なことである。それは生きている状況が変わるので、相手とのコミュニケーションの手段に過ぎない言語が変化する方が、相手との意思疎通が、より可能になるからであろう。
しかし、相手かまわず、ところかまわず、余りにも自分しか理解できない言葉を使うのは「超ヤバイっす」よ!
2008年10月目次へ 次頁へ