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「死ねばお金は必要でない!」

 食の安全性が揺らいでいる。毒入りの米が食用に流通するとはまったく想像もしなかった。健康被害こそ出ていないが、消費者だけでなく、酒造り、健康な食に必死に頑張る現場の人たちの気持ちを逆なでする許されない商いである。

 さらに、その監督省庁である次官の言い草である「現在の時点で責任はない」というコメントには驚き、怒りを通り越して開いた口が塞がらない。

 しかし、単に怒りをぶつけるだけでなく、冷静に彼の言葉を考えると、その根底に現在の省庁の存在の意味を見ることができるのではないか?つまり、省庁の多くは「国内の産業を育成する」目的があるのではないか?と…

 太平洋戦争で日本経済はあらゆる産業が大打撃を受けた。敗戦後の驚異的な復興は、第一に勤勉に働いた国民と、それを後押しした省庁の相乗的な効果があったのではないか?しかし、時代は変わり、世界の先進国に再び仲間入りした日本は、その役割と、国内における国民のニーズは大きく変わった。

 ところが、省庁はその変化に対応できていないのではないか?国民のニーズに対応するというよりも「自身の保身と老後」に、その関心が向いているのではないか、とさえ思われてならない。

 もちろん、大半の公務員は真面目にその仕事に励んでいるだろう。それだけでなく、現在の方向性に疑問を抱いている「心ある公務員」も多いのではないか?しかし、それらは声にはならず組織のしばりの中で埋没しているのではないか?

 これは官に限ったことではない。民でも同じような風潮が蔓延している。つまり、自分さえ良ければいい、わが社さえ良ければいい、という社会的な風潮が世の中に蔓延しているのではないか。

 すなわち、食品偽装等に象徴される「自分だけが良ければいい」「金儲けが一番」という考え方が多くの国民の中にますます浸透しつつあるのではないか、と思われてならない。

 派遣社員の驚異的な増加も、「わが社だけ儲かればいい」という経費削減という単一の論理がその理由であろう。もちろん、企業は利益追求がその目的である。しかし、大きくなればなるほど社会的な責任が生じる。

 「少子高齢化」の一因もそこにある。少子高齢化は先進国特有の社会問題だが、「結婚もままならない状況」に若者を追いやっている社会背景がある。

 わかり易い一つの例を挙げれば若者の車離れがある。若者たちは決して車が嫌いなのではなく、車が買えない状況がある。日々必要なガソリン代、オイル交換、車検、駐車場代、保険料など車の維持費を考えれば、一定の収入がなくては持てないのは自明の理である。つまり、「目の前の利益追求」がやがて自社に跳ね返ってくる。

 これは車に限ったことではない。どの企業も「わが社の目先の利益」を追求している。それが回りまわって「わが社の存続」を脅かせているという皮肉な結果を生むのではないか?

 教育においても同じような現象が起きている。いわゆるモンスター云々がそれである。「写真撮影は自分の子が中心に」「給食費を払わない」などの問題も、その根本的な原因は一つではないか。自分さえ良ければいいという…。

 どこから、そしていつからその現象が生まれて来たのであろうか?「金が仇の世の中。ああ、仇が恋しい」と川柳にもあるように、人間存在自体にあるのかもしれない。また、資本主義そのものが内包する問題かもしれない。私のような凡人にはそれは分からない。

 しかし、この風潮を多くの人たちが良しとするか否かによって大きく社会は変わるのではないだろうか?多くの人たちがこれを良しとしなければ、社会は少しずつ変わるのではないであろうか?

 人の命は長くない。この地球上に現在、しかも日本に生まれて生きているという現実―時間的にも空間的にも奇跡としか言いようのない現実―共に生きている現実を、どう捉えるかを見つめ直したいものだ。

 人はいずれは死んでいく。どんなに大金持ちの人にも受け入れざるを得ない真実である。時間的にも空間的にも、奇跡的に同時期に生きている地球上の仲間たちーそれは人だけでなく、あらゆる動物、植物―と共生する道はないのであろうか?としみじみ感じさせる最近の出来事である。

2008年9月



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