「人生を賭けた恋」
学生時代には早稲田短歌会に所属し、新進の歌人として嘱望されていた友人がいる。土屋文明氏をはじめ、そうそうたるメンバーが集う現代歌人50人の集いにも出席するほど、その世界では評価されていたようだ。
彼は詩的短歌という独自の短歌のジャンルを築こうとしていた。実際、彼の短歌はまるで短い詩である。
告訴いま どこに逆(さか)巻く 風の川
泣きて生まれし 僕の少年
盛んに倒置法を用いて、悩み、傷つき、それでもなお、甘さを残した少年の心を歌ったものである。そこには悩み多き若者らしいみずみずしい感性が輝いている。
彼は一途にある女性を愛していた。その子は私が出会った中で最も美しい女性の一人である、と断言できるほどの美人であった。その彼女に応えてもらえることのなかった恋をして数多くの歌を詠んだ。彼女との葛藤を詠んだ恋の歌の中にこそ、彼の目指す歌の世界が見え隠れする。
腕輪なければ 腕なくなると言う君を
ぶった僕こそ 故郷を捨てた
五、七、五、七、七の形こそとってはいるが、音読すると短歌というより短い自由詩に近いこの短歌にも彼の独自の世界が如実に出ている。それだけでなく、彼女を思う一途な青年の心象がうかがえるのである。
その彼と2,3年前の同窓会で何十年ぶりに出会った。ずっと高校の国語の教師をしていたが、体調を崩して退職して今はのんびり過ごしているという。その彼が「あの頃のような歌が書けない」「あの頃の短歌が一番良かった」と言っていた。
年齢とともに人は変わる。若いときには周りが見えず、自らの内側から生まれる「勢い」が勝る。その向こう見ずな勢いが「若さ」であり「みずみずしさ」である。しかし、年齢を重ねるに連れて、その向こう見ずさは消えてくる。
逆に、今まで見えなかったものが見えてくる。その見えなかったものこそ「いわゆる大人」に必要な感性であろう。不思議なことに、年齢を経るに従って思考力も増してくる。
人は恋をする。その恋は当人にとって人生の最大の大事である。この恋なくして人生がない、とさえ思い込む。しかし、かけがえのない恋と信じきっていても、過ぎてしまえば一つのエピソードに過ぎないことがわかる。「別れて良かった恋」さえある。
これは私の勝手な想像に過ぎないが、彼はまだ「片思いの彼女」を引きずっているのではないか?何十年経た今でも、彼女への思いは変わらないのではないか?それが「あの頃の短歌が一番良かった」と思わせているのではないか?と。
彼の最近の歌を私は知らない。そのために彼の求める歌がどのようなものかも分からない。ましてや凡人の私などには、彼の真に意図する意味は到底理解できない。
ただ、言えることは、彼はなお学生時代の「あのみずみずしい感性」のままで歌いたいと思っているのではないか、ということだけは分かる。しかし、彼の求めている感性は、若者特有の「勢い」だけでなく、「片思いの彼女」との思い出を、「あの当時のまま」蘇らせたいのではないか?
人は年を取る。年齢とともに失われる物もある。逆に年齢を経ることによって得られる物もある。彼は失われた物を求め続け、得た物を過小評価しているかもしれない。-換言すれば、彼にとって彼女の存在は「人生そのもの」なのかもしれない。
風の便りによれば、彼女はずっと独身のようだ…。
2008年8月前頁へ 次頁へ