料理で美味い、不味いは誰が決めるのか?
「ミシュランガイド東京2008」が発売された。初版は12万部が3日間で完売されたという。驚くべき数字である。この本で高い評価を受けた3つ星のお店が8軒。星2つ、1つを加えれば何と150店舗が入っているらしい。
この評価基準は、3つ星は「そのために旅行する価値がある卓越した料理」、2つ星は「遠回りしてでも訪れる価値がある素晴らしい料理」、1つ星は「そのカテゴリーで特に美味しい料理」とのこと。
調査は5人組で、その内訳は日本人2人、外国人3人らしい。私が知っている限り、ヨーロッパでは最低3回は調査するとのことだった。マスコミ報道によると「東京2008」では2回だった模様で、1500店舗の調査に1年半かけたという。
調査員が5人揃って調査に行ったとすると、1500×2=3000店舗を390日で調査したことになる。(週休2日と考える) つまり、1日当たり約8店舗だから最低でも8組、つまり40人の調査員が必要となる。
ミシュランは一般のグルメ雑誌と比べて、このようにけた違いの手間隙をかけるからこそ、その社会的評価が高いのであろう。ミシュランの信用とステイタス、換言すればそのブランドは人と金をかけた結果だろう。
しかし、1週間に5回もコース料理のオンパレードでは、それを身体が拒否する日もあるのではないだろうか?あっさり系が欲しい日、ゴッテリ系が欲しい日もあるだろう。ところが、調査対象となった店舗は予約が必要なお店が大半であろうから、その日の体調に合わせたお店というわけにはいかないだろう。
あっさり系が欲しいとき、こってり系のお店の場合にどういう評価になるのだろうか?逆にこってり系が欲しいとき、あっさり系のお店の場合はどういう評価になるのだろうか?もちろん、細かなマニュアルがあるだろうが、最後の決め手はその日の体調による部分も大きいのではないだろうか?
もう一つ言えば、彼らの評価した「3つ星」「2つ星」「1つ星」の基準は抽象的で良く分からない。ただ言えることはミシュランのその店舗の担当調査員が「美味しい」と感じたことだけは確かである。そして、彼らが一般人と比べてグルメであることも事実であろう。
つまり、一般人よりはるかに味覚の優れた集団が、手間隙かけて「美味しい」という保証をしたのであるから、一般的に言えば「不味い料理でない」ことは確かである。
マスコミの論調は2通りある。「3つ星の店舗が8つも東京にあり凄いことだ。そのお店は予約電話が殺到している。」 もう1つは、「もっと美味しいお店がある。また、東京でも偏った地域に過ぎない。」
双方の見方はいずれも決して間違っていない。どういうことか?今一度原点に立ち戻ってみよう。「美味しい」「不味い」は誰が決めるのか?それは個人個人である。味覚とは文化でありその人の人生そのものなのである。
ある人にとってどんなに美味しい料理でも、他の人にとっては決して美味しくないのは当然である。例えばスポーツ選手などは大量の汗をかくので塩分を身体が求める。そのため濃い味を、逆に汗をあまり出さない人は薄味を求める。まさに十人十色である。「お口に合いますか?」という言葉はそれを端的に表している。
3つ星のお店などは、今後一見のお客で溢れることになるだろう。そのお店の味に合わない味覚の客も押し寄せる。その結果がどうなるかは明白である。「値段が高いわりに美味しくなかった」という客もかなりの数になるのではないか?
つまりどんなに手間隙と金をかけようとも、個人の嗜好、もっと言えば人間の感覚に関しては単一基準では決して図れないのである。同じ者でも、今日と明日では変わるのが普通である。
日本人はブランドに弱い。グルメ本のブランド?である「ミシュラン」は、ヨーロッパにおけるそれとはまるで異なって、写真をふんだんに取り入れているという。日本人の特性を知り尽くしたその戦略は見事というしかない。しかし、それがすべての人の評価ではない。
蕎麦の世界では神様と見られている「高橋氏」でさえ、「すべての人が美味しいという蕎麦は打てない、3割の人が美味しいと評価してくれればいい」という考えだと聞いたことがある。
塾もまったく同じである?塾のいい、悪いは誰が決める?他人の評価で選んでも、自分に合う塾では決してない。単に、大手だから、有名だからという理由では落胆することも十分考えられる。結局、自分に合う塾を探すしか他にないのである。ん?
塾経営者の結論は最後にここに行き着く!?
2007年12月