新指導要領完全実施に思う? バックナンバー
今年の高校1年生から全面的に「ゆとり教育」は終わりを告げる。一昨年が小学生、昨年が中学生、そして本年度から高校生の文部科学省の新指導要綱の完全実施となる。
「ゆとり教育」という美名のもとに、余りにも指導内容の平易化があった。円周率3.14を3で計算することが象徴的に取り上げられたが、それは小数の3ケタ計算を教えないことから必然的にせざるを得なかった措置である。
ゆとり教育は日本の学力の低下を招いた。これは単に学力の低下だけでなく、今後その社会的影響は多方面に及ぶと思う。資源の少ない日本は、高付加価値の加工貿易か、より高度な知的財産に頼らざるを得ない。
ゆとり教育で育った世代が社会の中心を担う時代には、その弊害が多方面に出るのではないかと思われる。卑近な例でいえば、1時間の生番組でも、誤字・脱字の類の「間違いのお詫び」がたびたび見受けられる。ましてや、科学技術の先端を走る世界では、いまどうなっているのであろうかとの危惧がつきまとう。
新指導要綱に続いて、次の新たな教育の改革案が提言されているようだ。すなわち、英語力のアップ、理数系科目の学力アップ、IT関連のスキルアップである。そのどれをとってもグローバル化した社会における重要な要素であることは疑う余地はない。おそらく多くの人が賛同するに違いない。
理数系の学力低下は、新技術の創出に大きな痛手となる。また、現代社会はパソコンは欠かせぬツールとなっている。さらには尖鋭的企業では、日本人同士の会議でも英語を使うように、英語も必要不可欠なツールになっていることは否定できない事実である。
しかし、私はどこかに違和感を覚えてしまうのである。それはなぜであろうか?現在、日本における重要な問題は何であるかを考えたとき、より根源的な問題があるのではないかと思えて仕方がない。
ITを駆使し、流暢な英語をしゃべっても、その内容がなければ国際的には評価を受けない。英語とITが最重要価値であるなら、アメリカ人、イギリス人が最高であるという結論になる。
戦後、短期間にGNPが世界第2位になった理由は何であったかを振り返ると、違う側面が見えて来るのではないか? 英語もロクにしゃべれない人たちが海外に販路を求めていった。そして短期間にそれを実現した。その理由は何であろうか?流暢な英語が喋れることが最も大きな理由でないことだけは明白である。
つまり、たどたどしい英語であろうと物怖じせず話す勇気と、何をしゃべるかが問われるのだ。その人の持つバックボーンが、外国人との会話でも明白に出るのである。その人間の「人となり」は相手に伝わるのである。日本にいる外国人と話すことを思い浮かべれば容易にそのことは想像できる。
何かにチャレンジする強い気持ち、その人のバックボーンとなる知識・教養・人柄が相手に透けて見えるのである。
今後の日本の教育は、おそらく前述の方向、つまり、英語力のアップ、理数系科目の学力アップ、IT関連のスキルアップに進むに違いない。それは決して間違ってはいない。しかし、その根っこの部分の教育が欠けていれば、日本の社会的な地位は低下の一途をたどるのではないかとの危惧を感じるのは私一人であろうか?
2013年04月