メダル獲得の裏で バックナンバー
今年のオリンピックでは水泳に代表されるように数多くのメダリストを生んだ。彼らの栄誉を心から称えたい。世界で3位内に入るということは並大抵の努力ではないと容易に想像できる。
ところで、オリンピックの後になると常に気になることがある。マスコミが彼らのエピソードを探しては報道する。その中には本人の常軌を逸したほどの努力であったりする。もちろん、それを報道することは決して悪いことではない。しかし、その背後にある事実には、ほとんど触れることはない。
個人競技でいえば、世界的にその競技人口が500万人だと仮定すると、メダルを獲得できるのはたった3人である。つまり確率的には500万分の3に過ぎない。もちろん、500万人の中にはチンタラする者もいるだろう。しかし、少なくともオリンピックを目指す人たちは寝食を忘れるほどの努力をしている。
どんなに努力しようともメダル獲得の確率はほぼ0に近い。(この例では0.00006%) 「練習は裏切らない」「結果は後でついてくる」ことは極めて少ないのである。結果を残した人の言葉は、彼らの実感であろうが、すべての人にそれが当てはまる訳ではない。3人以外の499万9997人が血の出るような努力をしても報われなかったのである。
何がその誤解を生むのであろうか。結論から言えば十分条件と必要条件の違いである。なにやら難しげな論理を持ち出しているようだが、そんなことはない。メダリストになるためには努力だけでなれないということだ。
もって生まれた身体能力、強い精神力、いい指導者との出会い、競技を支えるための資金的な援助、恵まれた練習するための場所、彼らを支える恵まれたスタッフ、良きライバル、年齢的な要素など枚挙にいとまがない。もちろん、中にはすべてが揃ってない場合もある。しかし、身体能力、精神力などの必要不可欠な条件が欠けていることはない。
それらの条件がかみ合ってこそメダリストになれるのである。例え恵まれていたとしても摩訶不思議な運も左右する。換言すればその日の体調、組み合わせ、気持ちの高揚などであろうか?こう考えると、オリンピック2連覇、3連覇など、もはや神業である。
保護者の中にはマスコミ報道を鵜呑みにして「我が子」にあてはめようとする人も出てくる。「勉強もやれば目標が必ず達成できる!」と思い込むのである。もちろん、やれば現状よりできるようになるのは事実である。しかし、誤解を怖れずに言えば、保護者・本人の目標がすべて達成できるわけではない。
例えば、相対的な順位などはどんなに頑張っても1位は一人である。もちろん、全員同点で1位も論理的には存在する。しかし、現実的にはあり得ない確率である。200人前後の学校ではたかだか2人だろう。 保護者は我が子に期待する。それは自然の情である。しかし、私がこのコラムで何度も指摘しているように、子どもは決して保護者の所有物ではない。子どもと言えども尊重されるべき1人の人間である。過剰な期待は親子関係をいびつなものにする。
「うちの子に限って…」は幻想である。いびつな親子関係はそのときだけでなく、子どもが大人になっても、その関係は続くように思われてならない。保護者の役割は子どもをそっと見守るだけである。「成績が下がったら怒られる」という声も生徒からときどき聴く。
怒って上がるなら世話はない。長期的に見れば、むしろ逆効果でしかない。それは子どものために言っているのではないのではないか、自分の期待通りにならないことに腹を立てているに過ぎないのではないか、とさえ思えることもある。
親の役割は我慢することではないであろうか。自分の頭で考え、自ら行動できる子になるように、そっと見守ることしかできないのではないだろうか。順位とか得点などの目先の結果ではなく、子どもなりに頑張るその中で、彼らは結果より大切なことを身に付ける方がはるかに将来に役立つと思う。
2012年10月