日本の歴史に残る政権交代がついに起こった。これは良い、悪いなどの評価は別にして歴史に残る大きな出来事に違いない。静かなる革命とでもいうべきであろうか。
自民党の歴史的敗北と民主党の歴史的勝利の原因は一体何であろうか?マスコミ、識者は様々な見解を示している。しかし、論じつめれば「敵失である」との見方が多いようだ。
本当にそうであろうか?私はその見方に少し違和感を持っている。自民党の単なる敵失とは思われないふしがある。確かに1年で3人も総理大臣が変わったこと、表現に多少問題がある総理大臣であったことなど自民党の目立った失敗はある。
だが、私はもっと奥深い、もっと根の深いものを感じざるを得ないのである。どういうことか? 「一億中流階級」と称される社会から、今や一部の勝ち組と多くの負け組と称される「2極分化の社会」となったことが挙げられる。
個々人だけでなく中央と地方の格差もより鮮明になっている。シャッター街になってしまった地方の商店街など今や珍しくない。
さらには、世界でも有数の先進国に導いた現在の老人たちが「後期高齢者」に位置づけられ、安心できる老後を送れない時代になった。老人だけに止まらず、若者たちも単に夢を持てないだけでなく、安定した仕事、一定の収入が得られなくなり、結婚さえおぼつかない状況を生んでいる。
国民全員がその苦しみを耐えるなら納得もできよう。しかし、一方では「天下り、孫下り」によって、ほんの一握りの高級官僚と一握りの金持ちのみが「豊かな老後」が保証されている社会になっている。
民主党の政策を「財源は?」と攻撃する自民党であるが、彼らにはそれを口にするする権利すらない。なぜなら、850兆円もの国債を発行した、まさにその張本人であるから…。
高度経済成長が終わり、歳入が減少すれば歳出を減らさなければならないのは、小学生でも分かる理屈である。それを行わずに財源不足と称しては国債の発行、消費税アップなど国民にそのしわ寄せを押しつける政策を続けたのである。さらには年金問題である。政府は役人のなすがままであったことが白日のもとにさらけ出された。
江戸時代の百姓一揆のように、耐えられなくなった国民が、悪政を繰り返す自民党に「政権交代」という「国民一揆」を起こしたのだと思えてならない。いわば一過性の「敵失」とは思えない、深い原因があるように思える理由もそこにある。
さらに、今回の政権交代は「選挙に行っても何も変わらない」と諦めていた国民に、「自分たちが政治を変えられる」という意識を植え付けるきっかけとなったのではないか?国民の支持を失えば民主党も自民党と同じ運命をたどる。場合によってはネコの目のように政権が交代するかもしれない。
政権交代は民主主義にとって「あるべき姿」である。どんなにいい政治であろうと、権力が長く続けば澱む。これは世界の歴史が証明している。政権交代が普通に行われる社会こそ、健全な民主主義国家の普通の姿であろう。
そのためには自民党には「解党的出直し」をしてもらわなければならない。焦土と化した戦後の日本を早期に立ち直らせ、先進国の一つと数えられる国になったのは、一義的には勤勉な国民の存在であろう。しかし、それだけでなく政権をになった自民党による部分も否定できない事実であろうから…。
だが、その道は遠いと思わざるを得ない状況が続いている。というのも、つい1、2カ月前まで総裁候補と言われていた人たちが「総裁立候補辞退」をしているからである。来年の参議院選挙で負ければその責任をとらなければならないからか、それとも総理になれないからであろうか?だとすればあまりにも情けない。
ただ、2大政党による政権交代だけが国民の意思ではない。比例代表区での各政党の得票率が国民の総意を示している。民主主義は最終的には多数決ではあるが、少数意見の尊重も不可欠な要素であることは論を待たない。少数意見が尊重される社会こそ、次の成熟した民主主義の時代ではないであろうか?
今回の政権交代は我々に様々な思いを巡らせてくれる。我々はまさに歴史の生き証人となるであろう。