往路と復路の時間 バックナンバー
どこか知らないところに出かけるとき、行くときは帰るときと比べてはるかに遠く感じる。しかし、帰り道は意外に近く感じるものだ。まったく同じ道を通っているのだから、客観的に同じ距離とほぼ同じ時間である。それなのにそういう不思議な錯覚を覚えるのはなぜであろうか?
原因の一つには、目的地が無事に見つかるだろうか、という不安がある。手打ち蕎麦の好きな私はときどき行ったことのない蕎麦屋を訪問することがある。田舎で、しかも離合が困難な細い山道を通って探すときなど、その感を強くする。
実際問題として回りまわった末に目的地にやっと辿り着けるときもある。時にはどうしても辿り着けなくて諦めることも。ネットで調べた地図を持っていてさえそういうことが多々ある。
そういう経験が頭の中に無意識に記憶されているのかもしれない。つまり、辿りつくことが帰るときほど容易ではないことが記憶されているので、その困難さが時間を長く感じさせるのかもしれない。
逆に言えば、帰りは来た道をそのまま辿るだけなので、探す困難さを伴わない。そのために時間が短く感じるのだろう。 他にも理由が挙げられる。来た道の風景は初めての経験である。しかし、すべて覚えていなくても帰り道に見る風景はどこかに記憶は残っている。そのために「確かさ」への安心感がある。
「この建物は確かにあった」、などと、行くときとは違って確認可能である。
人生80年の現在で言えば、40歳が折り返し点である。淳風塾の卒業生も折り返しを過ぎている人もずいぶんいる。1年、1年が過ぎていくのが早く感じられているのではないだろうか? どこかに出かけていることに例えれば、すでに帰り道に入っている。
来し方40年と比べて時間の経過の早さに、驚いているのではないだろうか?それだけではない。今まで見たこともない風景が「パッと目の前に広がる」ことは少なくなっている。むしろ、自分の行く末が少しずつ見えてくる。
企業で言えば先輩の姿に自分の何年か後が透けて重ねて見える。家庭生活も来し方の何十年かの積み上げの中で、何年か後の姿も容易に想像がつく。それがそれぞれ置かれている状況で、ある人は幸せに感じたり、ある人は不幸に感じるかもしれない。
しかし、年齢というのは実に不可思議で、今までまったく見えなかったものが見えてくる。若いときとは違った感性が生まれるようだ。おそらく多くの卒業生の皆さんも感じているに違いない。
私など今更ながら、「若いときいかにバカだったか」を実感している。もちろん、今もバカには違いないが、それ以上に大バカであった。年齢が行くほど、記憶力は落ちるが、それをカバーする思考力が高まっているように思われてならない。
それぞれの年齢をむしろ、自分自身の特色、強みとして生きていくのはどうだろう。40歳を過ぎた卒業生の皆さん、この閉塞感漂う日本を支え、新しい峰に向かって進む中心となるのは、折り返しを過ぎたからこそ多面的に物事を捉えられる君たちである。各方面での活躍を祈っている。
2012年11月