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 子どもを伸ばすには知的興味…      バックナンバー

  親は子に期待する。これは普遍的な自然の情だろう。ところが、バブル経済がはじけてからの20年間で、何かが激変している。

 国際化と称され、日本の社会構造が恐るべき速さで変わりつつある。それは貧困率増加に象徴される格差社会であったり、何年にもわたるデフレであったり、政治的な変化であったり、ありとあらゆる分野に浸透しつつある。そういう日本の中に表現できない社会不安が蔓延(まんえん)しているように思われてならない。

 最近の事件を見聞するにつけ、今までの日本では予想だにしなかったことが頻繁(ひんぱん)に起こっている。事件の理由が「イライラしていた」など、従来の日本では考えられなかった「理由」の事件がいかに多いことか。

 大家族から核家族、さらには一人家族の増加に見られる家族の在り方の変化も,
それをさらに助長
している。大家族なら子育ても先達(せんだち)-じいちゃん、ばぁちゃんなど-が緩衝(かんしょう)の役割を果たしていた。

 ところが、現在においては、そういう家庭は非常に少なく、子育ても若い夫婦だけに依らざるを得ない。日本社会が延々と継承してきた「生活の知恵」換言すれば「文化」が音を立てて崩壊(ほうかい)しつつある。

 日本文化の特色は、農耕民族特有の「和」であり、「長期的にとらえる」ことであると思う。コメ作りに最も必要な条件は水である。水を確保するためには集団が必要である。また、何カ月もかかる。さらに、翌年を、翌々年を考えて、農地を痩(や)せさせない努力も必要である。我々日本人は、意識する、しないに関わらず、生活の中で自然にそれを身につけてきたのではないか。

 極言すれば「のんびり仲良くやって行く社会」から、「激しい競争社会」への激変である。こういう中では、わが子を「勝ち組」にさせるため必死になる保護者が相当数生まれるのは当然であろう。また、表現しにくい社会への漠然とした不安を、わが子にぶつけることもあるかもしれない。

 現在の学説がどうかはわからないが、仮に人の生涯を幼年期、少年・少女期、青年期、熟年期、老年期と分類すると、長寿社会ではそれぞれの期間が長くなる。つまり、世間でいう一人前になるまでの期間が、短命時代とは比較にならないほど伸びる。大学進学率が過半数になっている現状がそれを端的に示している。

 ところが逆に、目先を追う保護者も増加の一途をたどっている。一回ごとのテスト結果が「すべて」で、わが子を長い目で見ることができにくくなっている保護者が増えているのである。中には単元別テストさえ気になってしかたがない保護者さえいる。

 子育てはインスタントにはできるものではない。20年以上かかる。インスタント食品、ファーストフード、ジャンクフードなどとはまったく異質である。また、結果には良いときも悪いときもある。あの天才打者イチローでさえヒットを打てない試合もある。ましてや凡人の我々が常にいい結果を出せるはずもない。

  こういう保護者に限って「目先の結果のみ」に目を奪われる傾向がある。幼い頃から「知的興味を」を育(はぐく)む努力をしていない。知的興味の薄い子どもが勉強に必死に取り組むとは到底思えない。

 力ずくで勉強をやらせても、その効果はたかがしれている。中学校2,3年から少しずつ反発し始め、高校生ともなると保護者の言うことを聞く生徒は極めて少数になる。それで終われば、むしろ幸運である。

 子どもたちの心に「保護者への怒り・憎しみ」さえ生じかねない。私は何度もこのコラムで指摘しているように、「結果のみ」―それも極短期―をばかりに目をとられ、「力ずく」で子どもを押さえ続けると、将来の親子関係に禍根(かこん)を残すことになりかねない。

 わが子に期待するのは自然の情である。しかし、過剰な期待は子どもをダメにするばかりでなく、将来保護者は大きな十字架を背負うことにもなりかねない。結果を求めるなら、幼い時から知的興味を育(はぐく)み、長い目で子どもを見つめる以外に方法はない。お手軽な子育ての方法はない。

2010年06月